02/07
Friday
●長編小説「たまもの」が『群像』2014年3月号に掲載されました。
●長編小説「たまもの」が『群像』2014年3月号に掲載されました。
高校生に向けた小説を読み解く入門書に「どよどよ」(『黒蜜』[筑摩書房] より)が収録されています。編者:紅野謙介、清水良典。2012年11月10日刊行。
小説『転生回遊女』(小学館文庫)が文庫化されました。解説:河瀨直美。
主人公は、十八歳の桂子。奔放な女の子で、母のあとを継ぎ、役者のたまごとして生きていきます。次々と男のひとを魅了しますが、彼女の魂は、とどまることを知らず、常にここでないどこかをめざしてタビ=旅に出るのです。樹木と通じ、樹木と心を通わせ、風のように。鳥のように。題名に桂子のすべてがあります。「転がり落ちながら、羽ばたきながら、自由自在に回遊する、現代の遊女の転生譚」。このあとも、書き続けていきたい女の子です。七十歳、八十歳の桂子に、わたし自身が逢いたいから。(小池昌代)
小説『弦と響』(光文社文庫)が装丁も新たに文庫化されました。
解説:清水良典。
弦楽四重奏団のラストコンサートの一日を小説にしたものです。四重奏団の四人ばかりでなく、彼らを取り囲む様々な人間たち、そしてホールという空間、そこに響く音楽が、この本の主役です。光の当たる場所と影になる場所を交互に織り込んだ、「音楽が生まれる場所」についての小説でもあります。(小池昌代)
初の時代小説を収録したアンソロジー『代表作時代小説』(光文社)が刊行されました。
初めて書いた時代小説が、本書に収録されました。「官能時代小説」をという注文に応えたもので、官能の要素が入っています。ハードルは高く悩みましたが、生地、深川を舞台に決め、川の「力」に身を委ねることにしました。江戸と現代を繋ぐ、「不変」のものとして、水の怪しい揺れが見えてきたのです。四苦八苦しながらも楽しかったのは、やはり「言葉」との格闘です。戦いの跡はぶざまですが、わたしには、書きながら江戸語(のようなもの)に温められたという感触が残っています。温められたとは不思議なことです。現代に生きる現代日本人(わたし)は、現代日本語のただなかで、疲労し目に見えぬ傷を負っているのでしょうか。女房を他の男に託し、それをよしとして滅んでいった伊助。暗い水音を思い出しながら、わたしはまた、細い路地を伝って、再び江戸へ渡ってみたい。もしかしたらそこは、今よりよほど進んでいて、今よりよほど自由、そして人間らしい人間が暮らしているかもしれないのですから。(小池昌代)
文芸誌「俳壇」にて連載を続けて来た作品の中から加筆・修正し、書き下ろしを加え、一冊にまとめた短編集『自虐蒲団』(本阿弥書店)が刊行されました。
『自虐蒲団』に寄せて
本書は、『言葉師たち』というタイトルの元、「俳壇」に1年連載したなかから選んで並べ直し、書きおろしを加えたものです。主人公は、腹話術師やコピーライター、詩人、詩人の妻、俳人、女優、詐欺師など。「俳壇」という舞台があったために、俳句に惹かれる女性の物語や季語に興味を持つ女の子の話なども入っています。みな、迷いのなかにいて、曲がり角に立っているところは、わたしと同じです。
詩を書き始めた当初、言葉はわたしに、よろこびを与えてくれる「物」(ぶつ)でした。わたしは物と戯れ、飽きもせずに遊ぶ子供でした。その子供は、わたしのなかでまだ死んでいません。だから今も、詩を書くことは、困ったことに楽しいのです。
しかしときどき、自分がやっていることは、「虚妄」ではないかと思うことがあります。「詩」の力をわたしは疑ったことはありません。が、長く言葉に携わるうちに、わたしには、詩を扱おうとする、(わたしを含めた)人間の手つきに、深い疑念が生じ、複雑な感情が渦巻き始めました。
言葉を誰よりも大切に扱う人間。なのに、言葉を祝ぎとしてでなく、呪いや中傷に使い、人を深く傷つける。わたしも傷を負ったことがありますが、わたしだって無数の誰かを傷つけてきたはずで、わたしが考えるべきは、負わせた傷のほう。それに比べれば、自分が負った傷など、砂糖のように甘いものです。わたしには、ときどきしげしげと自分の傷を見直すという癖がありますが、その態度は、大切にしまっておいた大事な宝石を宝箱から取り出すような具合で、どこか自慢気、ほくほく、うれしいという感じなのです。これにふさわしい言葉を、わたしは自虐の他に思いつきませんでした。
戦いのような表現の場で、さらに先へ進むためにも、わたしにはここを通過する必要があったようです。とはいえ、表題作を初め、すべての素材、骨組みは虚構です。
今回もまた、多くの方々のお力を借りました。この場をお借りして、お礼を申し上げます。連載時から、装画を描いていただいたのは前田達彦さんです。ありがとうございました。(小池昌代)